北村隆一委員長所信


2006年12月2日(第34回計画学研究発表会(高松))

私はあまり物事を計画的に行う性格ではなく,委員長の大役を仰せつかり,戸惑う面も多々あるのですが,最善を尽くす所存です.所信表明というほどのものではないのですが,私の考えていることを記させていただきたいと存じます.

世紀も変わり,グローバリゼーションの正体もだんだん見えてきて,多くのものが転機を迎えているようです.特に,土木建設業界はその規模,体質を大きく変換することを余儀なくされているように見えます.おそらくは,土木計画学も転機にあるのでしょう.

ここでまず計画について考えてみます.私が持っている疑問は,人々は計画ができるほど進化したのか,というものです.言い換えると,学問としての計画学の知識を援用したあとで,世の中はどれほど,そしてどのようによくなりうるのか――もちろん,世の中はよくなっているのだろうけれども,どのような局面でよくなっているのか,という問いです.

実は人が言うより計画が機能している,という例からはじめたいと思います.イギリスの都市計画学のPeter Hall氏――今はSirになっていますが――の初期の著書にGreat Planning Disastersというのがあります.そのgreat disastersのひとつとして挙げられているのがシドニーのオペラハウスです.

ご他聞にもれず,非常に奇抜なデザインであったこともあり,工事の遅延,そしてコストのオーバーランには,目に余るものだったようです.設計したデンマークの建築家,Jorn Utzonにとっても幸運なケースではなかったようなのですが,出来上がってみると,おそらくは世界で最も頻繁に目にする――”most photogenic” な――コンサートホールになったのではないでしょうか.シドニーのアイコンとして,すっかり定着しているように思われます.シドニー,さらにはオーストラリアにとっての価値,貢献には計り知れないものがあると思われます.もっとも,これを計量化することは難しいでしょうが.これは一見disasterと思われる計画プロジェクトも,膨大な価値を持った資産となりうるという例です.

同様の例として,サンフランシスコ・サンホセ都市圏の鉄道,BARTを挙げることができます.皆さんご存知のように,BARTはBay Area Rapid Transitの略で,1970年半ばに開通しています.私のように非集計モデルを勉強したものにとっては,Daniel McFadden教授が需要予測プロジェクトのPIとして,非集計データを収集しlogitモデルを適用したという,深い言われ曰くのある鉄道です.Ken Train, Anttie Talvitie, David Brownstone, Tim Hauなどの研究者が,何らかの形でこのプロジェクトに関係を持っています.

さて,このプロジェクトもありとあらゆる悪口を言われました.無人運転のシステムなのですが,これが初期事故の連続です.技術的にぼろ糞に言われたわけです.(同じようなことが新幹線についても起こったことをご記憶の方も多いと思いますが).

政策的には,消費税を用いて住民一般から費用をあつめ,それを郊外に住む高収入のホワイトカラー層の通勤を便利にするために使っていると批判されました.また,ほとんどの利用者が以前のバス利用者で,自動車利用の削減に役立っていない,あるいは,Transbay Tube――サンフランシスコ湾を横切る海底トンネルですが――の建設に膨大なエネルギーをつかったため,それを公共交通への転換によるエネルギー節約により償却するには数百年かかる,などなど,1970年代後半はBARTの批判で持ちきりだったといえます.

しかし30年経った現在,BARTはBay Areaに不可欠の交通手段として認識され,そのネットワークは延伸を続けてきました.現在Bay Areaの交通はBARTなしに機能しません.現に,70年代にBART批判の有名な論文*を書いたバークレーのMel Webber教授も,その論文の末尾で「将来BARTがBay Areaに不可欠の装置 (fixture) となる可能はあるが」と自らの逃げ道を閉ざしてはいませんでした.
*:Webber, Melvin M. (1976) The BART experience?what have we learned. The Public Interest, 45.

このように,失敗であると識者から批判された計画プロジェクトが立派に機能している例があります.一方,明らかに予測可能な問題に対し,ただ指を加えてみているという,「計画の無作為」とも言えるケースが数々あります.

私が挙げたい最近の例は,IT革命と都市景観です.都市住民に日々の不快感を与えている通信線とそれを支えている電柱の問題です.そもそも,日本ではいまだに新規に建設される道路に電柱を立てているというのが私には全く理解できません.発展途上国からの来訪者に,なぜ日本は電線,通信線を地下に埋めないのかとよく聞かれますし,街中に電線がぶら下がっているのは日本とインドぐらいと言うアメリカ人もいました.

さて,今目障りなのは電線や電柱よりも,手首ぐらいの太さのある通信線や,それからぶら下がっている通信機器です.これらが増え続け,文字通り日本の空を覆ってしまうであろうことは「IT革命」の初期に十分予測可能だったと考えます.現に,当初光ファイバーを空中に張ることは禁止しようという案があったと記憶しています.しかしこの規制は,通例の業界の圧力でぽしゃったのでしょう.結果は,予測通り,どうしょうもなくなった日本の都市景観です.

これは計画の不在に起因する問題ですが,計画で前もって認知されなかった問題もあります.例えばニュータウン住民の高齢化の問題です.また,計画,というより,公共分野での計画が,どうも苦手な対象があります.たとえば歓楽街の計画が挙げられます.非常に重要だと思うのですが,なされたこともないのではないでしょうか.計画都市やニュータウンが面白くない理由がここにあるように思います.

人々がどのように意思決定するのかも,いまだよくわかっていないことのひとつだと思います.美しい理論は十分にあるようなのですが,その現実的妥当性は,きちんと検証されてきたわけではありません.もっとも,ここ数年実験経済学が脚光をあび,状況は変わりつつありますが.それでも,人々が,意思決定にあたり,自らが置かれた諸条件をどのように認知,認識しているかについては,ほとんど分かっていないと言っていいのではないでしょうか.

人々の意思決定で重要になるのが,利得・損失の参照点をどう設定するかというeditingの問題ですが,どうも日本の社会では,自分が持つ既得権が絶対視され,何もかもが損失とみなされるようです.私がかかわっている京都の観光交通の問題でも,お寺さんが自己主張ばかりで,他人のことや公共のことに目もくれません.人の幸せを説くはずのお寺さんがこうですから,合意なんて形成できっこないわけです.

また,京都では新たな景観条例が提案されつつあるのですが,これについては,景観の規制への住民の理解が不十分という新聞論調です.確かにそうなのですが,看板広告を生業とする人々やパチンコ業界が「理解」することはないでしょう.といって,中国式に,高速道路を作るからと住民を何万人規模で強制的に移転させるような社会がよい社会とも思えませんが.

ともかく,このような「ジコチュー」が集まった日本社会でどのように公共政策を追求しうるのでしょうか.いくつもの問題をはらんだ課題ですが,これについてもさらなる研究が望まれるところと思います.

伝統的に施設計画はわれわれの強みだったのですが,制度やルールを作り出すという側面は,土木計画が未だ十分に踏み込んでいない分野だと思います.先日,京大のセミナーで横浜国大の中村文彦先生にお話いただき,そのときに英国で公共交通運営を外注した場合の管理評価の仕組みを紹介してもらったのですが,非常に理にかなった仕組みになっています.これなんかに比べると,どうも日本人は制度作りが下手なようです.例えば,カラ出張が簡単にできるようですし,裏金もうまく作れるみたいです.性悪論が優勢で人を信用しない世の中の割には,不正を防ぐ仕組みができていないのが不思議です.

こういう風にみていきますと,まず第一に,計画プロジェクトの批判には拙速といえるものが多いといえると思います.瀬戸大橋やアクアラインについても,シドニーオペラハウスやBARTへの批判と同様,歴史の判断は肯定的なものと出てほしいものです.

第二に,われわれが直面している問題は,土木計画学が得意とする分野に起因するものはあまりないように思われる,という点です.例えば,現実社会には社会的ジレンマに起因する問題が多々あります.私の,おそらくは偏った意見ではありますが,計画学の得意とするアプローチが,これら問題の理解をさほど育んだとも,その解決に導いたとも思われません.交通の制御や,施設の維持管理など,土木計画学で蓄積された知識がうまく適用されている分野もありますが,計画学が対応してこなかった分野で生じる問題が多々あるわけです.その意味でも,土木計画学は転機にあるといえるでしょう.

さて,所信表明ということですので,新委員長としての考えを少し記させていただきます.

基本的には,私は岡田前委員長の路線を踏襲したいと考えています.前委員長は, 「具体的活動新機軸」として,

政策システム工学としての土木計画学のフロンティアを拡げる
近未来に向かって論争する土木計画学・政策論の展開
実社会とコミュニケーションし、フィールドで行動する土木計画学へ向けて
縦横複眼組織としての土木計画学委員会に向けての段階的改変
その他の可能性

を挙げておられます.いずれも二年で達成できるようなものではありません.私も,これらをさらに追求していきたいと考えています.

これらに私が付け加えるものとして,二三挙げさせていただきます.

まず,本日述べましたように土木計画学が転換期にあるという認識に立ち,土木計画学のあり方についての議論を再燃させたいと考えます.これは岡田先生のフロンティアの話にも通じます.これについては,幹事会の皆様とも話し合い,次の春大会にセッションを企画して,広範な人々を巻き込んだ議論を展開できればと考えています.

次に,もしかしたらヒンシュクを買うかもしれない提案を二つさせていただきます.

第一に,計画学の活動規模はもっと小さくてもいいのではないか,という点.第二に,多様性,多次元的価値尺度を包括することのできる,忍耐力 (tolerantな),包容力のある学会を目指す,という点です.
第一の点は,研究者の,特に若手の方々の活動が,学会関係の諸業務で飽和してしまっているのではないか,研究というのは孤独な営みという側面があると思うのですが,そのような研究に振り向ける時間とエネルギーを学会活動が奪い取っているのではないか,という危惧です.これについては私が間違っているかもしれませんが,皆様のご意見をお聞かせいただければ幸いです.

第二の点ですが,発表会の構成,論文集の編集,あるいは学会諸活動の遂行にあたり,より自律分散型の学会を目指すのがいいのではないか,という考えです.自律分散を,委員長である私がこれを皆さんに一方的に表明するというのは矛盾をはらんでいるのですが,学会の組織はなるだけ単純に,ルールや基準も最小限にし,構成員の自律的な活動を尊重支援する学会を目指したいと,私は考えています.

最初に申しましたように,あまり計画的な人間ではなく,委員長の大役をうまく果たせる自信もないのですが,皆様のご支援を賜りますことをお願い申し上げて,所信表明とさせていただきます.